LOGINあの夜から、私の世界の輪郭は急に冷えた。
誰かに触れられるのも、優しくされるのも怖い。 恋なんて、もう二度とできないと思った。朝、鏡に映るのは、Dが整えてくれた眉じゃない。
自分で描けば曲がって見える、冴えない顔だけ。(綺麗になろうとした自分が、一番バカだった)
化粧も、明るい服も捨てた。
黒と灰色ばかりを纏って、外見を放り出したら、自信も一緒に落ちていった。 人と目を合わせるのが苦しくなって、息が詰まることもあった。(誰にも期待されなくていい。誰にも見つけられなくていい)
就職したのは、都内の小さな広告代理店。
地味で忙しくて、数字だけが裏切らない世界だった。そんなある日、課長が置いた新規案件を何気なく開いた。
──〈清晴堂〉
婚礼引き出物企画。 式場:ホテル・クラウンセレスティア 新郎:清水晴紀 新婦:神園いずみ視界がきゅっと狭くなる。
(晴紀が……結婚)
「大丈夫?」
振り返ると、Dが立っていた。
フリーランスのイメージコンサルタントとして出入りしているDは、この会社とも何件か一緒に仕事をしている。 資料を見て、ほんのわずかに眉をひそめる。「最悪ね。打ち合わせ、同席するわ」
***
ホテル・クラウンセレスティア。
一年前と変わっていない照明の高さも、香りも、でもそこに立つ私は、まるで別人になってしまったみたいだった。Dの横顔を頼りに、なんとか呼吸を整える。
打ち合わせは淡々と進んだ。
晴紀の姿は——なかった。「では、ご家族との顔合わせを」
専務の声に、背筋が強張る。
披露宴フロアのロビーには、白い花と囁きが満ちていた。
「……神園家と清水家よ?」
「神園家って資産、何百億とか。旧財閥の本家筋だって」 「令嬢、本物ね」 「清水家のご母堂も……今日は格が違うわ」視線も、スタッフの動きも、二家に吸い寄せられていく。
(見なければいい。仕事だけして帰ればいい)
そう思った瞬間——
「晴紀、こっち」
その名が耳を刺した。
純白のドレスの令嬢が、青みを帯びた薔薇色の唇で笑いながら、
タキシード姿の晴紀の腕を当然のように取っていた。目が合った。一瞬だけ。
晴紀の視線がすっと逸れ、喉がかすかに動いた。私がその意味を掴むより早く、彼は令嬢へ体を向けていた。
「あら?」
令嬢が、私たちの方へゆっくり顎を向ける。
その一声だけで、ロビーの空気がひやりと動いた。専務が慌てて言葉を継ぐ。
「引き出物企画の……広告代理店さんで」令嬢が近づき、一度で私を値踏みした。
「はじめまして。神園いずみです」
礼を言おうとした瞬間、令嬢の目が細くなる。
「あなた……見たことあるわ」
「え……?」
「思い出した。ホテル・クラウンセレスティアのロビーで、一人で座ってた子ね?
一年前、晴紀の誕生日の夜」空気が凍る。
晴紀の肩がわずかに強張った。「……いずみ、やめろ」
止める声は弱々しくて、私には届かない。
令嬢は楽しそうに笑った。
「張り切って安っぽい深紅のワンピースなんか着て……ずっと待ってたんでしょう?
その瞬間、後ろにいた友人たちが一斉に笑い転げた。
華やかなロビーに響くその笑い声だけが、私の胸を無防備に切り裂いた。「『仲良くなった』『手をつないだ』『キスした』——特別だと思った?
現実は違うの。選ばれる側と、選ばれない側がいるだけ。あなたは、最初からこっちじゃなかったのよ」
指輪のダイヤが照明を受けて、ひとつ強く光った。
(……ああ)
私の中で、静かに何かが折れた。
「……業務は以上ですので、失礼いたします」
完璧な営業スマイルのまま頭を下げ、背中に刺さる視線を振り切ってロビーを出た。
***
「朱音」
背後から落ちた声に、呼吸が止まる。
振り向く勇気はなくても、誰の声かなんてすぐわかる。「……見てたの?」
「途中からね」
Dは隣に立ち、同じ壁を見つめた。
肩が触れそうで触れない距離。 その沈黙が、胸をぎゅっと締めつける。「私……なんで信じたんだろ」
声が震える。
「優しくされたからって、好きって言われたからって……全部預けて。
『自分の晴れを誰かのために』なんて……バカみたい」笑おうとしたのに、喉の奥で音が砕けた。
Dの指先が私の頬に触れ、涙の跡を一度なぞる。
その冷たさと温かさが混ざった感触に、胸がじくりと痛む。「バカじゃないわよ」
低い声が落ちる。
「ただ、信じる価値のない相手に、あなたの晴れを渡してしまっただけ」
Dの視線が、私の握りしめた拳に落ちた。
白くなった指先が震えているのを、自分でもわかった。
「ねえ、朱音」
Dは、そばに手を差し出した。
触れない。けれど、確かに選べと告げている距離。「もし今日みたいに踏みつけられるのがいやなら——」
Dの声が、ひどく甘く、ひどく冷たくなる。
「私なら、あなたを勝たせられる」
「えっ……?」
胸の奥がひゅっとすぼまる。
そんなはずない。
できるわけない。 そう思うのに—— Dの確信に満ちた微笑みを見た瞬間、 ほんの一瞬だけできるのかもしれないと思ってしまった。「顔も、体も、経歴も、実績も。
あなたの全部を武器にするの。 朱音なら、彼らに勝てる」Dの指先が、私にほんの少し近づく。
まるで地獄への案内役が手を差し出しているみたいに。「どうする?」
静かに、残酷なくらい優しく問われる。「……でも、私にそんな価値……」
「あるわよ。あなたは美しくて、賢くて、優しい。
磨かれていないだけの──ダイヤの原石。 覚悟さえあれば、いくらでも輝ける」その言葉が胸に落ちた瞬間、ロビーで令嬢の指に光った本物のダイヤが、鮮やかに脳裏に蘇った。
本当に……?
私が? 覚悟を決めれば、私はあの光と並べる……?震えた指先が、自分でもわかるほどわずかに動いた。
「六年後、このホテルの前で笑うのは──あなたよ。
覚悟があるなら、ね。 どうする?」怖い。
でも、それ以上に——悔しかった。 苦しかった。 このまま勘違いした女で終わるのは、もっと嫌だった。深く息を吸った。
そして——
私は、Dの手に触れた。
ほんの指先が触れただけなのに、
世界がかすかに軋んだような気がした。「……やる」
声はか細いのに、不思議と確かだった。
Dが、美しくも邪悪な笑みを浮かべた。
「それでいいわ。朱音」
差し出された手が私の手をしっかり包む。
階段の踊り場に冬の光が差し込み、 重なった二つの影が、壁に静かに揺れた。あの夜から、私の世界の輪郭は急に冷えた。 誰かに触れられるのも、優しくされるのも怖い。 恋なんて、もう二度とできないと思った。 朝、鏡に映るのは、Dが整えてくれた眉じゃない。 自分で描けば曲がって見える、冴えない顔だけ。(綺麗になろうとした自分が、一番バカだった) 化粧も、明るい服も捨てた。 黒と灰色ばかりを纏って、外見を放り出したら、自信も一緒に落ちていった。 人と目を合わせるのが苦しくなって、息が詰まることもあった。(誰にも期待されなくていい。誰にも見つけられなくていい) 就職したのは、都内の小さな広告代理店。 地味で忙しくて、数字だけが裏切らない世界だった。 そんなある日、課長が置いた新規案件を何気なく開いた。 ──〈清晴堂〉 婚礼引き出物企画。 式場:ホテル・クラウンセレスティア 新郎:清水晴紀 新婦:神園いずみ 視界がきゅっと狭くなる。(晴紀が……結婚)「大丈夫?」 振り返ると、Dが立っていた。 フリーランスのイメージコンサルタントとして出入りしているDは、この会社とも何件か一緒に仕事をしている。 資料を見て、ほんのわずかに眉をひそめる。「最悪ね。打ち合わせ、同席するわ」*** ホテル・クラウンセレスティア。 一年前と変わっていない照明の高さも、香りも、でもそこに立つ私は、まるで別人になってしまったみたいだった。 Dの横顔を頼りに、なんとか呼吸を整える。 打ち合わせは淡々と進んだ。 晴紀の姿は——なかった。「では、ご家族との顔合わせを」 専務の声に、背筋が強張る。 披露宴フロアのロビーには、白い花と囁きが満ちていた。「……神園家と清水家よ?」「神園家って資産、何百億とか。旧財閥の本家筋だって」「令嬢、本物ね」「清水家のご母堂も……今日は格が違うわ」 視線も、スタッフの動きも、二家に吸い寄せられていく。(見なければいい。仕事だけして帰ればいい) そう思った瞬間——「晴紀、こっち」 その名が耳を刺した。 純白のドレスの令嬢が、青みを帯びた薔薇色の唇で笑いながら、 タキシード姿の晴紀の腕を当然のように取っていた。 目が合った。一瞬だけ。 晴紀の視線がすっと逸れ、喉がかすかに動いた。 後ろめたさか、ただの苛立ちか── どちらでも、もう関係なかった。 私がその意味を
どうしたらいいのかわからなくて、ロビーの端のソファに沈んだ。 ホテルの照明はあたたかいのに、自分の身体だけが冷えていくみたいだった。 膝の震えだけが、自分のものじゃないみたいに止まらなかった。(……帰らなきゃ……でも……動けない……) そんなときだった。 自動扉が開く音が、妙に大きく響いた。 晴紀だった。 すぐ目の前を、誰もいないみたいに、一度も振り返らず真っ直ぐ歩いていく。「……はる、き……?」 声にしたつもりなのに、喉の奥で溶けた。 彼はそのまま外へ出た。 黒い車のドアが静かに開いた。 車内の灯りに浮かんだのは、青みを帯びた深い紫の装いの女──派手さはないのに、纏う空気だけが別格で、思わず息が止まる。 脚を揃えて座り、白い指先で髪を払う仕草が、妙に洗練されていて目が離せない。 横顔だけで、どこかの世界の人とわかる。(……誰……?) 世界の光が、その女だけを照らしていた。「遅いわ、晴紀。……来て」 声の響きだけが、直接、胸の奥に落ちてくる。 指先が冷たくなる。 呼吸の仕方がわからなくなる。(なんで……目の前を……通り過ぎて……) 世界が細いトンネルみたいに歪んで、音も光も全部そこへ吸い込まれていく。 その先には──深紫の女と、晴紀しかいなかった。 晴紀が乗り込み、ドアが閉まる一瞬、車内の照明がはっきり二人の姿を照らした。 令嬢が晴紀の胸元をつかみ、強く引き寄せる。「ちょ……っ……」 押し殺したような声が聞こえた次の瞬間、唇が激しく重なった。 私とするみたいな軽いキスじゃない。 押しつけるみたいな、深いやつ。 晴紀の背中がシートに叩きつけられ、令嬢がその上に覆いかぶさるように身体を倒す。 噛み殺した息が混ざる。 服が擦れる音が、ロビーまで届く気がした。 令嬢の手が晴紀の顔を固定し、角度を変えて、何度も、何度も、貪るみたいにキスを落とす。 ガラス越しでも分かるほど「熱」があった。(……やだ……やだ……なに、これ……) 視界が揺れる。 涙が出ないのに、涙の味だけがする。 令嬢は晴紀の襟を指で引き下ろし、首筋にキスを落とした。 晴紀が小さく息を吸った。 その顔は、私と向き合っていたときより、 ずっと、ずっと……甘い。(……あ……) 呼吸を忘れたまま、ただ見ているしかなかった。 最後
「──朱音、目、開けて」 鏡の中にいたのは──見知らぬ「綺麗な女」だった。 肌は淡く光り、瞳は深く、睫毛がきれいに影を落とす。 髪は滑るように揺れ、Dが選んだ深紅のワンピースは、光を吸ってわずかに艶が立ち上がる気品のある赤で、身体の線を静かに拾っていた。 薄い光が布の表面をかすめるたび、まるで高価な墨をひと刷けしたみたいに深みが滲む。 メイクも服も、どこも破綻がなくて、息をのむほど完成されていた。(……誰……? 本当に、私?) 普段の私はノーメイクで、髪も後ろで適当にまとめるだけ。でも、三週間だけは違った。早起きしてスキンケアを変えて、間食をやめ、脚が震えるほどスクワットして……この日のために、別人のように変わった。「努力の成果がきちんと出てるわよ」 背中越しにDの指先が髪を整える。ふわりと、いつものあの香り──Dの手にかからなければ絶対に出ない仕上がりの匂い。「朱音。これで落ちない男は、ゲイよ」「……Dのことじゃん」「私はゲイじゃなくてバイ」 言うと、Dはゆっくりと目を細めた。 長い指で前髪を払う仕草ひとつさえ洗練されていて、成熟した大人の余裕と、中性的な美貌の危うさが同居する横顔が、かすかに笑った。 その笑みを追うように視線を落としたとき──鏡の中の自分と目が合った。 そこにいた私は、信じられないほど幸せそうに微笑んでいた。 バッグには、晴紀に渡す淡い水色の革のメモ帳。(……喜んでくれるかな)*** 今日は、晴紀の誕生日。 そして——私たちが付き合って一年になる、大事な日。 待ち合わせは、晴紀が予約したホテル・クラウンセレスティアのフレンチダイニング〈ラ・ルミエール・サンクチュアリ〉だった。 五万円の特別コース。 画面でその数字を見た瞬間、思わず息をのんだ。 写真の中の店内はあまりに美しくて── 自分なんかが本当にあんな場所に座っていいのか、不安が胸に滲んだ。(でも……晴紀は、大丈夫って笑ってくれた)(大事な日だからって) 思い返すほどに、その言葉が胸の奥をそっと温めていく。(……好きって言われて、手をつないで、キスまでして)(──これって、次に進むってこと、なんだよね?) 期待と緊張がゆっくり混ざり合う。 胸の奥が、じんわりと熱を帯びていく。 晴紀と初めて会ったのは、被災地のボランティアだっ