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第3話 地獄への手を、私は取った

last update Last Updated: 2025-11-20 17:11:06

 あの夜から、私の世界の輪郭は急に冷えた。

 誰かに触れられるのも、優しくされるのも怖い。

 恋なんて、もう二度とできないと思った。

 朝、鏡に映るのは、Dが整えてくれた眉じゃない。

 自分で描けば曲がって見える、冴えない顔だけ。

(綺麗になろうとした自分が、一番バカだった)

 化粧も、明るい服も捨てた。

 黒と灰色ばかりを纏って、外見を放り出したら、自信も一緒に落ちていった。

 人と目を合わせるのが苦しくなって、息が詰まることもあった。

(誰にも期待されなくていい。誰にも見つけられなくていい)

 就職したのは、都内の小さな広告代理店。

 地味で忙しくて、数字だけが裏切らない世界だった。

 そんなある日、課長が置いた新規案件を何気なく開いた。

 ──〈清晴堂〉

 婚礼引き出物企画。

 式場:ホテル・クラウンセレスティア

 新郎:清水晴紀

 新婦:神園いずみ

 視界がきゅっと狭くなる。

(晴紀が……結婚)

「大丈夫?」

 振り返ると、Dが立っていた。

 フリーランスのイメージコンサルタントとして出入りしているDは、この会社とも何件か一緒に仕事をしている。

 資料を見て、ほんのわずかに眉をひそめる。

「最悪ね。打ち合わせ、同席するわ」

***

 ホテル・クラウンセレスティア。

 一年前と変わっていない照明の高さも、香りも、でもそこに立つ私は、まるで別人になってしまったみたいだった。

 Dの横顔を頼りに、なんとか呼吸を整える。

 打ち合わせは淡々と進んだ。

 晴紀の姿は——なかった。

「では、ご家族との顔合わせを」

 専務の声に、背筋が強張る。

 披露宴フロアのロビーには、白い花と囁きが満ちていた。

「……神園家と清水家よ?」

「神園家って資産、何百億とか。旧財閥の本家筋だって」

「令嬢、本物ね」

「清水家のご母堂も……今日は格が違うわ」

 視線も、スタッフの動きも、二家に吸い寄せられていく。

(見なければいい。仕事だけして帰ればいい)

 そう思った瞬間——

「晴紀、こっち」

 その名が耳を刺した。

 純白のドレスの令嬢が、青みを帯びた薔薇色の唇で笑いながら、

 タキシード姿の晴紀の腕を当然のように取っていた。

 目が合った。一瞬だけ。

 晴紀の視線がすっと逸れ、喉がかすかに動いた。

 後ろめたさか、ただの苛立ちか──

 どちらでも、もう関係なかった。

 私がその意味を掴むより早く、彼は令嬢へ体を向けていた。

「あら?」

 令嬢が、私たちの方へゆっくり顎を向ける。

 その一声だけで、ロビーの空気がひやりと動いた。

 専務が慌てて言葉を継ぐ。

「引き出物企画の……広告代理店さんで」

 令嬢が近づき、一度で私を値踏みした。

「はじめまして。神園いずみです」

 礼を言おうとした瞬間、令嬢の目が細くなる。

「あなた……見たことあるわ」

「え……?」

「思い出した。ホテル・クラウンセレスティアのロビーで、一人で座ってた子ね?

 一年前、晴紀の誕生日の夜」

 空気が凍る。

 晴紀の肩がわずかに強張った。

「……いずみ、やめろ」

 止める声は弱々しくて、私には届かない。

 令嬢は楽しそうに笑った。

「張り切って安っぽい深紅のワンピースなんか着て……ずっと待ってたんでしょう?

 可哀想ね、庶民の子って、すぐ勘違いするから。」

 その瞬間、後ろにいた友人たちが一斉に笑い転げた。

 華やかなロビーに響くその笑い声だけが、私の胸を無防備に切り裂いた。

「『仲良くなった』『手をつないだ』『キスした』——特別だと思った?

 現実は違うの。選ばれる側と、選ばれない側がいるだけ。

 あなたは、最初からこっちじゃなかったのよ」

 指輪のダイヤが照明を受けて、ひとつ強く光った。

 誰も止めない。

 晴紀ですら、沈黙したままだった。

(……ああ)

 私の中で、静かに何かが折れた。

「……業務は以上ですので、失礼いたします」

 完璧な営業スマイルのまま頭を下げ、背中に刺さる視線を振り切ってロビーを出た。

***

「朱音」

 背後から落ちた声に、呼吸が止まる。

 振り向く勇気はなくても、誰の声かなんてすぐわかる。

「……見てたの?」

「途中からね」

 Dは隣に立ち、同じ壁を見つめた。

 肩が触れそうで触れない距離。

 その沈黙が、胸をぎゅっと締めつける。

「私……なんで信じたんだろ」

 声が震える。

「優しくされたからって、好きって言われたからって……全部預けて。

 『自分の晴れを誰かのために』なんて……バカみたい」

 笑おうとしたのに、喉の奥で音が砕けた。

 Dの指先が私の頬に触れ、涙の跡を一度なぞる。

 その冷たさと温かさが混ざった感触に、胸がじくりと痛む。

「バカじゃないわよ」

 低い声が落ちる。

「ただ、信じる価値のない相手に、あなたの晴れを渡してしまっただけ」

 Dの視線が、私の握りしめた拳に落ちた。

 白くなった指先が震えているのを、自分でもわかった。

「ねえ、朱音」

 Dは、そばに手を差し出した。

 触れない。けれど、確かに選べと告げている距離。

「もし今日みたいに踏みつけられるのがいやなら——」

 Dの声が、ひどく甘く、ひどく冷たくなる。

「私なら、あなたを勝たせられる」

「えっ……?」

 胸の奥がひゅっとすぼまる。

 そんなはずない。

 できるわけない。

 そう思うのに——

 Dの確信に満ちた微笑みを見た瞬間、

 ほんの一瞬だけできるのかもしれないと思ってしまった。

「顔も、体も、経歴も、実績も。

 あなたの全部を武器にするの。

 朱音なら、彼らに勝てる」

 Dの指先が、私にほんの少し近づく。

 まるで地獄への案内役が手を差し出しているみたいに。

「どうする?」

 静かに、残酷なくらい優しく問われる。

「……でも、私にそんな価値……」

「あるわよ。あなたは美しくて、賢くて、優しい。

 磨かれていないだけの──ダイヤの原石。

 覚悟さえあれば、いくらでも輝ける」

 その言葉が胸に落ちた瞬間、ロビーで令嬢の指に光った本物のダイヤが、鮮やかに脳裏に蘇った。

 本当に……?

 私が?

 覚悟を決めれば、私はあの光と並べる……?

 震えた指先が、自分でもわかるほどわずかに動いた。

「六年後、このホテルの前で笑うのは──あなたよ。

 覚悟があるなら、ね。

 どうする?」

 怖い。

 でも、それ以上に——悔しかった。

 苦しかった。

 このまま勘違いした女で終わるのは、もっと嫌だった。

 深く息を吸った。

 そして——

 私は、Dの手に触れた。

 ほんの指先が触れただけなのに、

 世界がかすかに軋んだような気がした。

「……やる」

 声はか細いのに、不思議と確かだった。

 Dが、美しくも邪悪な笑みを浮かべた。

「それでいいわ。朱音」

 差し出された手が私の手をしっかり包む。

 階段の踊り場に冬の光が差し込み、

 重なった二つの影が、壁に静かに揺れた。

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